立花道雪の墓は梅岳寺 | 武将の墓所巡り(福岡県糟屋郡)

立花道雪(たちばなどうせつ)
戸次鑑連(べっきあきつら)
1513年〜1585年
主君:大友義鑑→大友宗麟

 

立花道雪は大友氏の重臣として、
北九州を中心に名を馳せた猛将です。

立花道雪

時には自ら戦場で果敢に闘い、
時には大友宗麟の愚行を諌めるなど、
軍事にも政治にも力を発揮しました。

 

信長の野望でも非常に軍事力が高かったため、
上杉謙信ばりの働きをしてくれました(笑)

 

大友氏が島津氏に戦いを挑み、
大敗を喫した耳川の戦い
この戦がきっかけで国力が弱体化し、
多くの家臣が離反していく中、
道雪は最後まで大友家に忠誠を尽くします。

 

1585年、柳川城攻めの最中に病死。
辞世の句は、
「異方(ことかた)に、
心引くなよ、豊国(とよくに)の、
鉄(かね)の弓末(ゆずえ)に、
世はなりぬとも」

豊後国が争いの世になっても、
主以外の敵に心をひかれてはならない

という風な意味で解釈しています。

 

道雪の法号の由来は
「道に落ちた雪は消えるまで場所を変えない。
武士も一度主君を得たならば、
死ぬまで節を曲げず、尽くし抜くのが、
武士の本懐である」
というものと言われています。
渋すぎます。。

 

また、35歳の時に雷にうたれ、
半身不随になったと記録が残っています。
戦場には輿に乗って出陣したんだとか。
そんなことしたのは大谷吉継か立花道雪くらいでしょう。

 

墓は神宮町の梅岳寺

寺名:梅岳寺(ばいがくじ)
住所:〒811-0102 福岡県糟屋郡新宮町立花口1275
創建:1385年

梅岳寺

正面の門をくぐるとすぐにお堂があります。
道雪の墓はその裏手にあります。
お堂を向かって左側に裏手に回る小道がありますので、
そこから建物に沿って歩いといくと
お墓で出てきます。

 

整備された道ではないので、
なんだか泥棒の気分です。笑

左から、薦野増時(こものますとき)、道雪の母、道雪となっています。

 

 

 

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