薦野増時(こものますとき)
1543年〜1623年
主君:立花鑑載→道雪→宗茂→黒田長政
立花道雪に才能を愛された武将
薦野増時の一族、薦野氏は、
筑前国糟屋郡薦野の国人領主。
宗像氏や立花氏に仕えた一族。
大友宗麟の命令で
戸次鑑連が立花山城に入って
「立花道雪」と名乗ると、
増時はその家臣となる。
冷静沈着にして勇猛果断、
文武に秀でた武将であったため、
道雪からは重宝され、
立花家の家督を譲るという話さえ
出たと言われる。
道雪の死後は、
家督を継いだ立花宗茂に仕える。
関ヶ原の戦いでは、
東軍か西軍かで宗茂と意見が別れ、
納得いかぬまま西軍側になってしまう。
西軍が破れ立花氏が改易になると、
黒田官兵衛に仕官を勧められ、
黒田氏の家臣となる。
道雪が眠る梅岳寺の墓守を希望し
黒田氏に庇護されていくことになる。
薦野増時は81歳で死去。
薦野増時の墓は梅岳寺と養徳山に
名称:養徳山(現、小松ヶ丘)
住所:福岡県古賀市薦野1386−18