みなさん、こんにちは。
今回は徳川家康の母親について調べてみたいと思います。
2000年放送の大河ドラマ「葵 徳川三代」では、
山田五十鈴さんの これぞ於大の方!(伝通院)という
名演技で記憶に残っています。
この於大の方、徳川家康の父親である松平広忠との
結婚生活はたったの3年間で、
その後離縁して、久松俊勝(ひさまつとしかつ)と再婚をしています。
なぜ離縁をすることになってしまったのでしょうか?
於大の方のプロフィール
享禄元年(1528年)に尾張国知多郡の豪族である
水野忠政の次女として誕生。
知多郡とはおおよそこの辺です。
天文10年(1541年)に松平広忠に嫁ぎます。
徳川家康を産んだのは、2年後の1543年のことです。
そして翌年の1544年に離縁されたということになっています。
ではなぜ離縁されてしまったのでしょうか?
離婚の理由は?
松平広忠と結婚していたこの時代、
松平家はお隣の強国である今川家の傘下に入り、
家の安泰を図っていました。
ざっくりこんな感じ(今川家はもっとでかい)
しかし、実家の水野家が今川家と絶縁し、
織田家に従ったため、
とばっちりを恐れた松平広忠が
於大の方を離縁して実家に返したということです。
なんとも切ない話ですね。。。
この時代ではあるあるなんでしょうけどね。
再婚後に子供がたくさん
於大の方は久松俊勝と再婚後に
6人の子供を産んでいます。
3男3女です。
・松平康元(改名前:久松勝元)
・松平康俊
・松平定勝
・多劫姫
・松姫
・天桂院
この3男は、後に家康の家臣になっています。
晩年は?
於大の方は松平広忠と離縁後も
家康とは連絡を取り続け、
最終的には母として迎えられ、
家康の近くで晩年を過ごしました。
大河ドラマでは天下を取りにいく家康に
的確な助言をするゴッドマザー的な
存在になっていましたね。
天下人の母として歴史に名を残した於大の方は、
1602年に山城伏見城で亡くなりました。
関ヶ原に勝利し、いよいよ徳川家の天下へ
詰んでいく時期ですね。
まだ豊臣家も存続していましたので、
天下人になった家康を見ることは叶いませんでした。
於大の出生地である東浦町には、
於大公園があり、毎年「於大まつり」という
祭典が催されています。