立花宗茂(たちばなむねしげ)
1567年〜1643年
主君:大友宗麟→義統→豊臣秀吉→秀頼→改易→徳川家康→秀忠→家光
高橋紹運の息子として生まれ、
立花道雪の養子になるという
強烈なサラブレットの血筋。
若い頃から大友家の家臣として
各地で奮迅の活躍をしていました。
豊臣秀吉の九州平定や朝鮮出兵でも活躍。
関ヶ原の戦いでは、
徳川家康からの破格の条件での誘いに乗らず、
秀吉への忠義を守り西軍につく熱き武将。
西軍の敗北後は浪人となるが、
宗茂の実力を知る加藤清正や前田利長などの
有力大名がこぞって
家臣になるよう勧誘するが、なびかず。
大阪冬の陣で豊臣方に付かれるのを恐れ、
徳川家康が必死に説得し、
徳川秀忠の傘下になる。
江戸時代になっても、
徳川家光の御伽衆になったり、
島原の乱に総大将の補佐として参陣するなど、
重要な役目を担い続けた。
墓所は柳川市の福厳寺
寺名:福厳寺(ふくごんじ)
住所:〒832-0046 福岡県柳川市奥州町32−1
福厳寺は柳河藩々主立花家の菩提寺で、臨済宗黄檗派の寺院です。